オランダへの手紙



 1983年8月。僕は心配したのが嘘のような簡単な入国経過でオランダにはいることができた。
 今になって考えるとやはり身なりなどにうるさいイギリスの入国審査を選択するよりも、大陸内でより多くの色んな人種の審査に関わっているオランダの審査を選んだ事が正解に思えた。それというのもイギリスの入国審査で引っかかって追い返された奴の話を僕は何件か聞かされていて、それならまだ大陸内にあるオランダの方が審査は甘いという情報は以前から得ていた。しかしそれにしても簡単すぎる審査だったもので、まさか審査官と冗談のひとつもいえる余裕があろうとは思ってもいなかった。
 空港のターミナルビルを出て僕がまず思った事は、「なんてこの国の太陽はやわらかい光をたたえているのだろう。なんてこんなに素朴なやさしさを感じるんだろう。」だったが、残念ながらその清々しい気持ちは一月もしない内にすぐに消え失せた。

 オランダに入って2、3日の間は初めてのヨーロッパということもあり、僕は旅行者になりきってアムステルダム市内を歩き回った。だけど僕の懐にある資金はせいぜい一月もてばいいくらいのものでしかなかったのでどうしてもお金のかかることはできず、そのためにお金のかかりそうな名所は外から眺めるのがやっとだった。
 有紀からの手紙は街にはいった翌日にダム広場のすぐ近くにあるジェネラル・ポスト・オフィースで受け取った。
 僕はこの手紙をどこで読もうか考えたが、とりあえず前の路面電車の通りを南に向かって歩き出した。ダム広場のカフェは観光客に占領されているし、そこいらじゅうでストリート・ミュージシャンが賑やかにパーフォーマンスを繰り広げていると落ち着けるものではなかった。

 ヨーロッパはどこに行ってもそうだが本当に古い街並みがそのまま残されている。
 後で知ったことだが、このオランダにしても建物を建て替えようと思っても外観はまったく以前と同じものにしないとならない法律があって、そのせいで何年経っても市内の街並みは変わらずに保たれている。
 通りと通りで囲まれたひとつのブロックは、ヨーロッパの中世に始まった街造りで家と家を密集させた形の要塞的意味合いもあり、外から見るとあまりにも単純なものだ。メイン通りに面した建物は1、2階は商業スペースとして使われているケースが多いが、それ以上は大体が住居という同じようなもので、長く暮らすようになると面白みには欠ける。ただ面白いのは通りからはけして見えない部分が内側にあって、ひとつのブロックの建物で囲われた内側には幾ばくかの空間があり、個々の家のガーデンだったり、あるいは物干し場だったりするのだが、これが僕には意外と好奇の対象だった。

 僕はそんな同じようなブロック造りの建物が続く通りを100メーター位南に歩いたところで一軒のカフェ・バーの前で立ち止まった。というよりも隣の誰も住んでなさそうな家の屋根があまりにも朽ち掛けていて、それに目を奪われて立ち止まったところにそのカフェ・バーがあった。
 アムステルダムのセントラル駅から南に下る路面電車のラインは、ポスト・オフィースの前の通りフーアバーグワルを通るラインとダム広場を突き抜ける通りローキンダムラクを通るラインがあり、この二つの通りに挟まれたニューウェンディック通りとカルバー通りがモール街になっている。このモール街には洒落た店が軒を連ねているのだが、反面こちら側のフーアバーグワル通りにはそれに比べると古い雰囲気をそのまま残した店が多かった。
 僕の目の前にあった店もやはり古い感じの店で、店の前にはコーヒーと簡単な食事のメニューが書いてある黒板がだしてあり、クロスも掛かっていない木製のテーブルが3、4個。そしてドアの上にはちゃんとヘイネケンのビールのマークが取り付いていた。

 僕は少し寒かったので外のテーブルに座るのはよして店内に入った。くすんだ天井、凄い数のグラスがカウンターの上の吊戸棚の下に下に向けて並べてあり、吊戸棚の中には凄い数のウイスキーやスコッチが並んでいて、カウンターも黒光りしていてビールのコックが5,6本目についた。
 いつもだとここも前の折れ戸を全て開けてオープン・カフェのようにしているのだろうが、この日は少し寒かったせいなのか入り口のドアだけを開けていて、僕は入って右側の道路側の席に座った。するとすぐに40代のかっこいい口髭を生やしたウェーターが注文を取りに来た。
 僕はたんに手紙を読みたくてこの店に入ったのでコーヒーだけを注文したのだけど、このウェーターは僕にもよくわかる英語を喋るうえに凄くフレンドリーで、嫌味のない愛想の良さで接してくれたので、僕はそれが凄く気に入りいっぺんでこの場所が好きになった。
 この時は勿論わかるはずもなかったことだけど、この店ともウェーターのマーシャルとも意外と長い付き合いになる。特にマーシャルはこの先毎朝僕が顔を出すと決まってクッキーと英字新聞を付けてコーヒーを持ってきてくれるほどだった。



 「オランダ、ベルギー、フランス、スイス、イギリス。どの国も私にとっては魅力的な国ばかりです。でも私はヨーロッパを知りません。今ショウさんがそこにいるなんて羨ましい限りです。オランダってどんな国なんですか。アムステルダムってどんな雰囲気の街なんでしょうね。レンガ造りの家が沢山あって、カラフルな旗が沢山はためいていて、郊外の畑にはいろんな色のチューリップが沢山咲いていて、大きな風車があちらこちらにあって。なんてついついおとぎ話の国を連想してしまいますが・・・。」
 手紙の書き出だしはそんな感じで、以前オーストラリアにいた頃の有紀を想像させるものだった。遠く離れて少し時間が経って顔のイメージが薄れてきたけど、好奇心たっぷりでユーモラスで、だけど負けず嫌いが少しばかり顔に出てる女性の面影が少しづつ浮かんできた。
 正直僕はインドで受け取った手紙のことがあるのでちょっとばかりほっとした気持ちになった。だけどその後に書いてあることには驚いた。

 「実はショウさん。私達の結婚、伸ばすことにしました。このことは私から彼に頼んだことです。どうしてそうなったかをあなたにうまく伝えられないかもしれません。だけど海外にいるあなたにひとつだけ私の正直な気持ちが伝えられるなら、私はこのまま自分の気持ちをごまかしながら、埋もれて流されていくような生き方はできないということです。彼は私が側にいてくれるなら何でも私の好きな事をしてもいいといいます。海外に好きな時に遊びに行こうが、自分の好きな仕事を続けようが、ぜんぜん構わないから結婚しようと言ってくれます。でも今の私の心の中でくすぶり続ける、勿論自分に対してとそしてこの社会に対してのわだかまりはそんなことでなくなるものではない。そう思っています。」
 いままでの有紀の手紙にはなかったような強い意思表示だった。
 
 「私はこの国に帰ってきてからというもの。そお彼と話してるときも、仕事をしてる時も、自分が充実して生きてるってなって感じを持てなくなってしまいました。オーストラリアでは全ての事が与えられるものではなく、自分からつかみに行くものでした。仕事での成功も、私生活での幸福もそして安全も、全てに自分の努力があってこそ可能だったと思っています。そんな中で生きていた私はいつも充実してました。日本人にはわからないかもしれないけど、ショウさんが今いるヨーロッパの人達も、それからたぶんアメリカの人達にしてもそれは同じでしょ。可能性は万人に平等に与えられていて、幸福も万人に平等に与えられる。だけどそれを自分が得るために社会や企業に対して代償や犠牲を払うことは決してないはずです。違いますか。

 だけどこの国は違っているようです。企業の中にいても家庭でも、上からの声や周りからの声をだまって聞いてれば丸く収まる。それさえしてれば地位や幸福や安全を奪はれることはない。そういう圧力を感じます。皆が白い服をきてるところに違った色の服で出かければ、誰かが何かを言います。
 先月もこれまで日本びいきだったイギリス人の女性を奥さんに持つ知り合いが、イギリスから永住目的で家族で日本に帰って来ましたが、外国人の奥さんの方がそんな風潮に耐え切れずイギリスに帰って行きました。
 私もこれまで海外で色んな民族の人達の暮らしや社会を見てきました。100%自分がこれが正しいと言い切れる自信はありませんよ。だけど日本人は何かどこかでずれてる気がします。本当に自分にとって守るべきものなのか、大切なものなのか、あるいは必要なのかもわからないものに、あまりにも多くの代償や犠牲を払っていると思いませんか。私はそれに耐えられなくなっています。

 私の婚約者は親の意向も影響しているようですが、有名な学校を出てそのままエリートのレールに乗っかって生きています。本人もそのことについてなんら疑問も不満も感じてないようです。
 ただね、それでもオーストラリアにいた頃は彼自身も開放感を感じていたせいか色んな夢なんかも話してくれてたんですよ。将来どこの国に行こうとか、何をしようって話してましたからね。
 だけど日本に帰ってきて最近彼の姿を見ていると凄くつまらなものに向かって生きてるような気がします。逃げようのないオーバーワークや上司への服従心なんてね。確かにそうして巻かれて生きていればお金と地位は手にすることができるでしょうが、私まで彼のレールに沿った生き方に同調しながら生きていこうっていう気にはなれなくなりました。
 ショウさん。今の私の気持ちって間違ってると思いますか。」

 オーストラリアを出る時の有紀の幸せそうな顔が浮かんだ。あの頃の有紀は何を追い求めていたのだろう。と、ふと思った。
 今は誰がどこにいるかも皆目見当すらつかなかったけど、もしここにオーストラリア時代を共に過ごした連中がいれば、誰一人彼女を責める者などいない。それよりもむしろそこまで思い切ったことのできる彼女に驚くと思う。
 有紀がオーストラリアから帰国するとき、僕たちは面白おかしく有紀がこれからどうなるのだろうって話していた。「日本での結婚を選んだのだから結局は長いものに巻かれて生きるようになるさ。」と、皆が思っていた。だけど1年が過ぎた今、結局有紀は妥協することなく結婚まで諦めてしまおうとしている。
 彼女は僕達が思っていた以上に強い女性なのかもしれない。だけどこれからどう生きようと思うのか、僕には見当もつかなくなっていた。

 「ショウさん。これから先、もしよかったらたまにでもいいから電話で声を聞かせてくれませんか。勿論シビアな旅を続けているあなたに負担はかけたくありません。だからコレクトコールにしてください。今すごくあなたの声を聞きたいと思っています。
 それからピーターのことですが、彼からあなたに会ったという話は聞きました。凄く驚きました。こんな偶然ってあるのですね。彼は今私の家にいて仕事を探しています。私がオーストラリアにいる頃から一度日本に行ってみたいと言っていた人ですから、当分は日本にいると思います。ショウさんが言うように今の私には一番の話相手であり理解者になっています。これから少しづつ日本社会が見えてくれば、何か彼なりの意見を話始めるのじゃないかと思っています。そういう人ですユダヤの血を引く彼は。」

 テーブルの上のコーヒーはすでに冷めていたけど僕は一気に飲み干した。まだ午後2時ということもあり僕以外客のいない店内はガランとしていて、ウェーターも暇なのか裏の方に入って出てこなかった。僕は手紙をテーブルの上に置き、最近やっと慣れてきた手巻きタバコをポケットから取り出して巻き始めた。ドラムという銘柄のその手巻きタバコは、指と歯がニコチンで黒くなることを除けば安くて美味かった。
 有紀が結婚を伸ばしたという話は意外に冷静に受け止めていた。ただこれからどう彼女に向かい合えばいいのか。僕にはあまり自信がなかった。それと電話を掛けることが僕にできるだろうかと思った。
 何となく複雑な気持ちになりかけて僕は表の通りに目を転じた。ちょうど電車が通り過ぎようとしていた。そしてその電車が通り過ぎた時、通りの向かいに日本語で書かれた看板のある旅行代理店だと思える店が目に入った。




 オランダに入って3週間という時間があっという間に過ぎていった。この国では英国に対するライバル心がフランス人やドイツ人のように強くないせいか、思った以上に英語が通じ、その上に僕には分かりやすい発音だったので助かったが、方や職探しの方はというと散々で行き詰ってしまっていた。
 知り合いのつても無く、労働ビザもない僕に同情で仕事をくれるような者はいない。日本で白人の旅行者が仕事を探せば、物珍しさだけで人の良い日本人は世話をやこうとするだろう。仕事を探しながら僕はよくそれを考えていた。考えるたびに世界でも稀にみるお人よし日本人に腹が立った。オランダ人を呪い、日本人をあざ笑い、そうするうちに情けなるのだった。
 お金は殆ど底をつこうとしていた。日本に帰る飛行機のチケットも持たない僕にとって、家族に帰国ようの飛行機代をむしんすることは何にも増して辛いことだったし、このままここで終わってしまえば僕の人生は酷くつまらないものになる気がした。だけど反面この国で物乞いまでする勇気も僕にはなかった。

 結局あと10日生きていければいいだけの所持金になったとき、僕は以前見て場所もわかっている日本人経営だろうと思われる旅行代理店を訪ねた。
 その店はやはり日本人経営の店だったが共同経営者の奥さんはオランダ人だった。僕が店に入っていったとき最初に声をかけてくれたのはご主人の方で、多分僕が相当疲れた表情をしていたせいか、彼はビジネスの話よりもまず僕をイスに座らせ、つまらない天気の話やオランダの感想を聞き、そしておもむろに滞在目的を聞いてきた。
 僕はこれまでの事、オーストラリアにいたことや本当はこれからどうしたかったのかを、面倒くさかったがひととおり話し、どうも帰国するしかないようなので日本までの一番安いチケットがいくらか尋ねた。
 すると彼は少し考え込んでいたが、もしこの国で仕事があればする気があるのか、専門的知識がどれくらいあるのか僕に聞き、何か役にたてるかもしれないと言ってくれたのだった。

 オランダという国は日本と大変長い繋がりがあって、オランダ人に日本の文化は意外と深く浸透している。それと1980年代に入って日本人旅行者が海外に爆発的に出始め街中でよく見かけるようになったことで、日本人に対する慣れが出来始めたこと。そして国と国との交流も盛んになりだして、世界の各地でジャパン・フェスティバルなどが開かれるようになったりして、日本の食や生活に興味をもつ外国人は飛躍的に増えていた。その中で住に対する分野も例外ではなく、タタミ、ショウジ、ランプなどの装飾品は現地の人間がイメージだけで作り出したものでもちゃんと商品になって売れていた。
 彼の話だと、知り合いのオランダ人デザイナーと組んで日本風のインテリアのコーディネーターと装飾品の製作をしてみないかという話だった。やる気があるならすぐにでもなんとかすると彼は言ってくれた。
 内心僕に自信はなかった。近代的なビルを相手に働いて来た者ができる仕事.とは正直言えなかったからだ。だけどこの国ではこれが間違いなく最後のチャンスだと僕は思った。



 

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